大津~山科にはこんな名所があるよ。
昔の写真と見比べながら、おさんぽしてね!
オススメの
おさんぽコースはこちら!
徒歩35分 「小関越え」と呼ばれる古くからの峠道を歩くよ
徒歩12分 トンネル西口から桜並木が続くよ
徒歩15分 山科の古刹・毘沙門堂もおすすめ!
徒歩3分 桜並木が続きます
徒歩3分 桜並木が続きます
徒歩5分 住宅街の中を通って迂回、トンネルの西口へ
明治43(1910)年
閘門とは高低差のある水路に舟を通すための水位調整用の門をいいます。建設当時この大津閘門を境に疏水の水面の高低差は約1.5メートルあり、日本初のレンガ造りの本格的閘門として注目を浴びました。当初の門扉は檜材で、4人がかりでハンドルを回し開閉していました。
明治19(1886)年
大津から京都に抜ける第1トンネルは約2.4キロで、貫通に2年を費やし、当時日本一の長さを誇りました。なお、第1疏水建設時に作られた3つのトンネルには明治を代表する政治家たちによる扁額が掲げられており、この第1トンネル東口の扁額は、伊藤博文が揮毫した「気象萬千」(意味:千変万化する気象と風景の変化はすばらしい)です。
明治15(1940)年
第1トンネルの掘削工事では、我が国の大規模なトンネル工事で初めての試みとなる「竪坑(シャフト)方式」を採用しました。トンネルのほぼ中間の山上から垂直の坑道(竪坑)を掘り下げ、山の内側と外側の各2箇所・計4箇所から掘り進めることで、工期を短縮することができました。
第1トンネルの西口周辺は、紅葉の名所でもあります。扁額は、山県有朋が揮毫した「廓其有容」(意味:悠久の水をたたえ、悠然とした疏水のひろがりは、大きな人間の器量をあらわしている)です。
第1疏水には、大津から蹴上に至る間、四ノ宮・諸羽・御陵・日ノ岡・蹴上の5箇所に「船溜」が設けられています。「船溜」とは、積み荷の揚げ降ろしや人の乗降などのためにつくられた舟の停泊スペースのことです。四ノ宮船溜は、形が四角いので「重箱ダム」の愛称がついています。
山科を北から南へと流れる安祥寺川に重なる地点では、この流れを遮らないように、南禅寺の水路閣と同様に水路橋を設けることで、疏水路を立体交差させています。疏水路を支える橋台部には、当時のままのれんが造りを見ることができます。
鉄筋を古レールで代用した「第11号橋」を試作品として、明治37(1904)年に、本格的な鉄筋コンクリート橋「第10号橋(黒岩橋)」を建造。右岸橋台部には工事を指揮した技師の名が刻まれています。2つの橋の建造で培った技術は、後に鉄筋コンクリートが主役となった第2疏水工事などで実用化されました。
明治20(1887)年
東口には、井上馨による「仁以山悦智為水歓」(意味:仁者は知識を尊び、知者は水の流れをみて心の糧とする)、西口には、西郷従道による「随山到水源」(意味:山に沿って行くと水源にたどりつく)が掲げられています。
明治20(1887)年
第3トンネル東口の扁額は、松方正義による「過雨看松色」(意味:時雨が過ぎると、いちだんと鮮やかな松の緑をみることができる)。東口のすぐ手前には、田邉朔郎指導のもと、明治36(1903)年7月に作られた日本最初の鉄筋コンクリート橋「第11号橋」があります。
第1疏水の工事資材はダイナマイトとセメント以外の大半を自給自足しました。トンネルや水路閣のれんがもそのほとんどは自営工場で焼いたもので、専用のれんが工場を建設して約1400万個ものれんがを生産しました。現在、市営地下鉄御陵駅前には工場跡を示す石碑が建てられています。